左官のいろいろ vol.1

今回は、土を使い分ける職人とも言われる「左官」に焦点をあて、その魅力や歴史などを掘り下げてみたいと思います!(2回に分けてお伝えする第1回目です)

左官の歴史

縄文時代

左官の起源は縄文時代と言われています。当時は竪穴式住居。土は最も手に入りやすい材料で、土に水分を混ぜて小さなかたまりを作りそれを積み上げて壁を作っていました。
その後、現在のような様式になったのは、飛鳥時代になってからだといわれています。

飛鳥時代

左官技術は現在のトルコ・シリアで生まれ、シルクロードを渡り、中国、朝鮮半島を経て仏教の伝わりと共に、日本へ伝わりました。石灰を使って白塗りの壁の仕上げる技術や細木で壁の芯を作る現代へと繋がる技術です。中国で代表的な石灰を使った古い建築物には万里の長城があります。日本で初めて左官が関与した建物は、飛鳥寺と言われています。
このように飛鳥時代に入り、現在の左官工事の元となる手法がとられて行ったようです。

戦国〜安土・桃山時代

戦国時代、日本各地に城ができ、飛躍的に日本の左官技術が発達します。その後、安土・桃山時代になると茶室の建築に色土が用いられ、土の色をコントロールするだけでなく、砂や繊維を混ぜることで様々な表現が可能になりました。千利休などの茶人によって数寄屋技術が全国に広がり、数寄屋建築の中で左官は発展していきました。

江戸時代〜戦前

江戸時代には漆喰仕上げが左官によって開発され、建物の耐火性を飛躍的に向上させ、まちで良く起きていた火事を減らすことに貢献しました。また商人の蔵や町家へと普及していき、芸術性という面においても、飛躍的に向上したのがこの頃で、漆喰彫刻というレリーフ状の装飾的施工も行われるようになりました。文明開化頃には、擬洋風建築と言われる建物も多く出現しました。そして、明治以降左官は洋風建築の担い手になり、また、権力者・商人などを中心に、数寄屋建築の文化も広がっていき、左官の隆盛は戦争が始まる昭和11年まで続きます。

錦絵 中塗り作業
作者名:歌川国輝(二代) 明治6年 左官の様子
出典/渋沢栄一記念財団HP

 

戦後から現在へ

戦後の経済発展の中、建築の工業化、効率化、経済性重視の流れの中で日本の伝統的な職人は、排除され、減少し、技術が途絶えていきます。
建築に占める左官工事の比率は現在1%で、最盛期の10%から大きく減っており、後継者不足が問題視されています。
しかし近年、シックハウス症候群などの住環境アレルギーが問題になり、人々のエコ意識の高まりも追い風になって、日本の風土・気候にあった健康的な建材である塗り壁が見直され始めています。
習得するのに10年は掛かると言われる高い技術、また最近では漆喰の鏝絵や彫刻などの芸術性の高さから海外からも注目を集め始め、左官職人・左官技術に対する需要が高まってきているようです。

名前の由来

左官の由来にはいくつかの説があります。

平安時代の階級の名残説

奈良時代の律令制度下において、宮廷の建築・土木・修理を一手に引き受けていた「木工寮(もくりょう)」という組織がありました。その中でも階級があり、「守(かみ)=大工」、「介(すけ)=桧皮葺き大工」、「壤(じょう)=金物大工」、「属(そうかん)=壁塗り職人」で構成されており、「属(そうかん)」が訛って「さかん」と呼ばれるようになったという説です。現在では、この説が最も有力ではないかと捉えられています。また、今の漢字の 左官 は当て字で「沙官」「沙翫」と表記されていたことから「しゃかん」と呼ばれるようになったという説もあり、実際、現在でも左官を「しゃかん」と発音する人もいます。

官職として名付けられた説

昔は土師、壁塗などと呼ばれていましたが、無位の者は皇居内に入れず、出入りするためには何かしらの位が必要でした。そのため、皇居を改装する際に「官」という位を与え左官と呼んでいました。では、なぜ左なのか。「左」という文字の中には仕事を表す「工」が使われており、「右」の文字の中には「口」が使われています。つまり、今で言う技能職が左官であり、事務職が右官であったということです。その名前が現在でも使用されているという説です。

大工=右官 壁塗り職人=左官と呼んでいたから説

左官は壁塗り、土関連の仕事を担当。そして右官は木関連の仕事を担当していました。つまり、右官は大工さんのことです。建築において、骨組みを作る大工のことを「右官」と呼んでいたことから、それに対して壁塗りの職人を「左官」と呼ぶようになったという説です。ただし、大工のことを右官と呼んでいたという事実は文献などで確認されておらず、あくまで俗説の一つとなっています。
ちなみに、右官と言う呼び方をしなくなった理由として以下の2つの説があります。
・棟梁が大工を兼ねるようになり、右官という呼び方は廃れていった。
・右と左とでは、左の方が地位が高く(左大臣と右大臣なら左大臣の方が位が高い。)つまり、左官と右官とでは左官の方が位が高いということで、右官が左官よりも下にされるのを嫌がり、右官という呼び方をしなくなっていった。

天皇からもらった称号の

645年、許勢眞壁連(こぜまかべむらじ)の孫・許勢波多哀(こぜはたお)が、天皇の住まいの外郭(がいかく)に美しくて丈夫な土壁を作ったことで、天皇から左官の称号を賜りました。だから、土壁職人を左官と呼ぶようになったという説です。

擬洋風建築

ここで、上の左官の歴史にあります「文明開化」の頃に出てきた擬洋風建築について掘り下げてみたいと思います。

擬洋風建築とは
幕末から明治頃に日本の各地で建築された、「日本人の大工、宮大工や左官職人らが、西洋人の建築家が設計した建物を参考に、時には中国風の要素を混合し、見よう見まねで建てた西洋風の建築物」のことです。(東京駅を設計した建築家・辰野金吾のような正式に西洋建築を学んだ人物が建てたものは擬洋風建築から除かれます。)明治10年前後にピークを迎え、明治20年以降に消えています。今も、数は少ないながらも各地に現存し、幕末から、明治、大正時代の日本の世相と雰囲気を今に伝える貴重な建築物として、国や県、市などの文化財に指定されて大切に保存されています。

錦絵に描かれた築地ホテル館
背景

明治維新以降、ホテル・洋式工場・小学校・役所・病院など新しい機能を持った施設が、はじめは大都市にやがて全国に求められるようになって行きました。西洋的な機能を持ち堅牢性を求められたこれらの施設は、洋風建築として建てられる必要があり、迎賓館や造幣局など主要な施設はお雇い外国人の手によって設計・監理されました。そして、その他の官庁舎や地方の施設は地域の大工の手にゆだねられたのです。しかし、木造建築の伝統に育まれた日本の大工にとって、石に由来する洋式建築は未知の存在でした。建築様式はおろかその用途すら分からない状況の中で、伝統技術を身につけた大工たちは、伝統の側から洋式建築を解釈し、見よう見まねで洋式建築を建設したのでした。横浜の洋式建築を参考に東京で生まれた擬洋風建築は、多数の錦絵に描かれ大衆の反響を呼びました。

旧開智学校(長野県) 疑洋風建築物の頂点が、漆喰系疑洋風とされています。その代表的なもの。
大寶館(大宝館) (山形県)
旧新潟税関庁舎 (新潟県)
白雲館 (滋賀県)

出典/JAPAN WEB MAGAZIN ・ Wikipedia

和風でもなく、洋風でもない、それを巧みに表現したのが、左官材料の漆喰であり、左官の技術でした。

 

弊社の左官工事のこだわりについての記事はこちらにあります。

39ジャパンのこだわり ~左官工事編~